窓の外には『平和な日常』がある。
朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。 果たしてこの大陸て、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。 何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。 そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。 皮肉に満ちた死神の笑みを。 ザハドの戦が終結してから、十日と少しが経過した。 本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、エドナ宗主であるマケーネ大公直々の命令により、エドナの首都に滞在することを余儀なくされていた。 彼にとって、首都は最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。 しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。なぜなら武家の家に生まれたにもかかわらず光を持たなかった彼は、力が発現するまで父親との関係はあまり良いとは言えなかったからである。 今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。 その根拠は、彼自身が一番良く知っている。 屈辱的な負け戦となったこの度のザハドの戦い、そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。 常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を殲滅(せんめつ)する。それが今回彼に下された命令だった。 が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。 結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。 自軍を守るために最良の方法を取ったわけではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。 エドナでは執務室の窓辺に立つルウツ皇帝メアリ・ルウツの視界の先には、近衛である朱の隊の練兵場がある。 常ならば誰かしらが剣技を磨いているその場所には、今日は人の姿は見られない。 だが、その場所を見つめる彼女の青緑色の瞳は、怒りをはらんでぎらぎらと輝き、可憐とも言える淡桃色の唇は真一文字に引き結ばれている。 その様子は、まるで練兵場に何かの幻影を見ているかのようでもある。 そして白い手袋がはめられた華奢な両の手は、固く握りしめられていた。 数日前のことだった。偶然彼女は、妹姫と下賎な下級騎士が剣を交えているのを見たのである。──あわよくば、邪魔者を消すための手駒にしようと思っていたのに、またしても妹に奪われた……── その時の状況を思い出すたび、今までに感じたことのない怒りが込み上げて来る。 と、突然、静かな室内に扉を叩く音が響く。 振り向いたメアリはあわてて垂れ絹(カーテン)を閉め、お入りなさいと声をかける。 扉が開いて現れたのは、うら若き可憐な女帝とはいささか不釣り合いな壮年の男……この国の実権を握っていると噂される宰相マリス侯だった。 女帝はその顔をつまらなそうに一瞥すると、何事なの、とでも言うようにわずかに顎を上げて見せた。 一方のマリス侯は、自分の娘あるいは孫ほどの年齢であろう女帝に向かい、かしこまって頭を垂れる。「お探しの物が、ようやく見つかりましたので、そのご報告に参りました」 女帝の宝石のような瞳に、瞬間閃光が走る。 が、表情はまったく動かすことなく、続きを促すように一つうなずいた。 それを確認したマリス侯は、さらに深く頭を下げる。「多少厄介な場所に潜り込んでおりまして……。どうやら北の果て、エドナのマケーネ大公領、アレンタの地に隠れているようです」 その言葉を受けて、女帝は美しい顔に艶やかな微笑を浮かべて見せた。 その笑みの意味を計りかねて、マリス侯は一瞬いぶかしげな表情を浮
成人し家督を継いでも、僕は父の言葉に従い政に関わろうとはしなかった。 書物や美術に傾倒し、無名の芸術家達を支援することに無類の喜びを感じる、端から見れば苦労知らずの貴族の馬鹿息子を演じた。 もう何年も放置されている宮中の書庫奥深くに潜り込んでは、古の大帝の記録を読みあさることに至福を感じる、近寄りがたい変わり者であろうとした。 そうしているうちに、僕はどれが本当の自分で、何が作り上げた自分なのか、わからなくなっていった。 もとより書物を読むのは、唯一の楽しみでもあったから、その点は苦ではなかったのだけれど。 けれど、たまたま書庫で出会った妹姫に、蔑(さげす)むような視線を向けられた時は、心が痛んだ。 そうこうするうちにも、隣国との戦は続いていた。 か弱い少女だった皇帝は、意外にも積極的に侵攻を行っているように見える。 それが宰相が裏から糸を引いているのか定かではない。 あるいは、他に何か理由があるようにも見えた。 けれど、僕は生きるために道化を演じる身だ。 詮索することもできず、ただ無為に公爵が言った『その時』を待つことしかできない自分が情けなかった。 そんな時だった。 父の代から仕えている執事が、ある物を僕のもとにもたらした。 それは、皇帝の署名が入った一通の手配書だった。「……これは? 」 首をかしげて見せる僕に、執事は慇懃(いんぎん)に返答する。「見ての通りにございます。閣下におかれましては、義侠心に捕らわれることなく、万一の時は速やかに……」「近衛に引き渡せば良いんだね?」 僕の言葉に、執事は御意、と一礼して、部屋を出ていった。 こんなご時世に皇帝に反旗を翻すなんて物好きは、一体どんな人物なのだろう。 かすかな興味を覚えて、僕は手配書を見やる。 そして、描かれていた人の顔に、既視感を覚えた。 こちらをじっと見つめてくる、鋭くて強い
おびえたような表情で、息子は私の顔を見つめていた。 寝台に横たわる私の身体は、いつしか骨と皮だけになり、顔色もどす黒くなっていたからだろう。。 無理もない。私は息子を守ると決めたあの時から飲めぬ酒を飲み続け、不健康な生活を送り続けていたのだから。 悲鳴を上げ続けていた身体が、ついに限界を迎えたというわけだ。「……来たか?」 力無く私は息子に笑いかけた。 囁くような声だったにもかかわらず、息子はうなずきわずかに後ずさる。「御用とは、何でしょう……」 消え入りそうな声で言う息子に、私は胸元から小さな包を取り出し、差し出した。 ゆっくりとこちらへ歩み寄り、それを両手で押し頂く息子に、私は開けてみろ、と視線でうながした。 息子は震える指先で包を解き、中から出てきた見慣れぬ指輪に首をかしげる。「……良く見てみるがいい。それがお前の正しい素性だ」 その言葉に、息子は注意深く指輪を眺める。 そこにルウツ皇帝の紋章が刻印されていることに気づき、さらにその色が不自然に黒ずんでいることに、息子は驚いたように私を見つめてきた。 これは、皇帝しか手にできぬもの。それがこのように色を変えているということは、すなわち皇帝に毒が盛られていた証……。「今となっては、それが唯一の証拠だ。……時が来るまで、誰にも見せてはならぬ」その言葉を受け、息子は包を握りしめ激しく首を左右に降りながら叫んだ。「何を……おっしゃることの意味が、わかりません!」 いつしか息子の頬は涙で濡れていた。 この時を逃しては、真実を告げることができない。 私は力を振り絞って告げた。「お前は、私の子ではない」 息子の指輪を持つ手は、それと見てわかるくらい震えている。 一
皇帝崩御の報せをうけ、私は迷った末に息子を皇宮へと連れて行くことを決めた。 それは、皇后や皇女達と息子を対面させると同時に、多くの貴族の前に息子をさらすという危険な行為でもあった。 けれど、ひと目だけでも息子を本当の父親に会わせてやりたいという気持ちが勝ったのだ。 皇宮で行われる葬儀にまつわる儀式に参列するために、子ども時代の私のために誂えられた礼服をまとった息子を前にして、さすがに私は息をのんだ。 その姿は、いつも以上に幼い頃の兄にそっくりだったからである。 一瞬、私は迷った。やはり、連れて行かないほうが良いのではないか、と。 息子を守り通すためには、やはりこの屋敷から出さないほうがよいのではないか。 その時、息子と目があった。 一体これからどうなるのだろうとでも言うような不安げな視線を向けられて、私は決意した。 やはり兄に会わせてやるべきだ、と。 ※ 皇宮の大広間に着くなり、その場に集う貴族達の視線が私……いや、息子に集中しているのを感じた。 無理もない、私が息子の存在を大っぴらにしていなかったというのもあるが、前触れもなく亡き皇帝と瓜ふたつの少年が私とともに現れたのだから。 私達を認めた侍従長は一瞬その目を見開いたが、すぐに何事もなかったかのように私達を皇帝のもとへと案内してくれた。 棺が安置されていたのは、皇宮内の礼拝堂だった。 中央には、皇帝の棺。その後ろに皇后と皇女姉妹が控えていた。 あの嫉妬深く心の醜い皇后もさすがに泣きはらした目をしており、打ちひしがれたような表情をしていた。 皇女姉妹に視線を移すと、妹姫の方は必死に涙をこらえているように見えたが、世継ぎの姉姫はそういった様子もなく、一番落ち着きはらっていた。 成年の儀を終えてまださして日も経っていないにも関わらず、だ。 その様子に、私はふとあることを思い立った。 兄の崩御を聞いたとき、皇后と宰相が結託して兄を殺したと考えていたのだ。 しかし、この皇后の悲しみ様を見ると、どうやらそうでもな
皇帝に二人目の姫君が生まれ、国内は祝賀の雰囲気に包まれた。 名だたる貴族たちはこぞって祝意を告げるべく皇宮へと向かったが、私は一人屋敷で酒をあおっていた。 隣の部屋からは、息子がたどたどしく乳母やその娘と話しているのが聞こえてくる。 最近、息子は唯一の友人と言っても良い乳母の娘と共に、執事から簡単な読み書きと計算を習っているらしい。 本来ならばそろそろ専属の教育係を付けるべきなのだろうが、私は敢えてそれをしなかった。 実子に無関心な愚かな父親を装うため、そしてあわよくば世間からあの子の存在を忘れさせるためだった。 息子にはこのまま権力争いに巻き込まれることなく、この屋敷で安らかな生涯を終えてほしい、そう思っていたのだ。 だがある時、私は執事からこんなことを言われた。「ご子息は大変聡明であらせられます。このままでは、あまりに不憫でなりません。それに……」 ここから先は言ってはならない、そう思ったのだろうか。 執事は突然口を閉ざす。 付き合いも長く、彼に全幅の信頼をよせている私は、発言を許可した。 執事は腰を直角に折った姿勢で、恐れながら、と切り出した。「失礼いたしました。わたくしめが心配しているのは、閣下亡き後のことでございます。閣下の庇護を受けている間はまだしも、お一人で生きていかねばならなくなった時、ご子息は自らのお命をご自身で守らねばなりません」 たしかにそのとおりだ。 私の存命中はこの愚かしい演技であの子を守ることができるだろう。 しかし、私が死んだあとはそうはいかない。 世間知らずな息子はその無学ゆえ、反皇帝派に担がれ反乱の旗印にさせられてしまうかもしれない。 そうなれば、結果は火を見るよりも明らかだ。 さて、どうするか。 それが運命と言ってしまえばそれまでだが、それでは結局息子を護ることにはならない。 だからといって、今から息子に英才教育を始めれば、それはそれであの皇后に目を付けられる可能性もいなめない
その日から、私は変わった。しかも、人として悪い方に。 日に何度も、演者の有名無名に関わらず、演劇や音楽の公演に通いつめるた。 そればかりではなく、何人もの売れない芸術家の後援者(パトロン)となり、金をそれこそ惜しげもなくつぎ込んだ。 そして、屋敷にいるときには昼夜を問わず酒をあおり、昼夜が逆転するような生活を送った。 議席を有していた御前議会には、何かと理由をつけ三度に一度は欠席をするようになり、そのうちめっきり足が遠のき、いつしかまったく出席しなくなった。 さすがに私の突然の変化を奇妙に思ったのだろう、ある日兄たる皇帝は近侍を伴うこともなくただ一人、お忍びで私の屋敷を訪れた。 これはおそらく、急激に変化した私の真意を包み隠さず話してほしいと思ったからなのだろう。 屋敷に迎え入れられた皇帝は、私の顔を見るなり声を荒らげこう言った。──一体、どういうつもりだ、と。 そこで、私はなんの説明もせず、皇帝を息子の部屋へと連れて行った。 訳もわからず息子の部屋にやってきた皇帝に、私は寝台を指し示す。 赤子用の小さな寝台の中にいるその子を見て、皇帝が息をのむのがわかった。 それほどまでに、私の『息子』として育てられている男児は、皇帝にそれこそ瓜ふたつだったのである。 寝台の柵を握りしめ、ようやく立っているような状態の兄に、私は静かに告げた。「私は、彼女……妻と約束したのです。その子を命にかえても守る、と」 私の声は、さほど大きくはなかった。 しかし、皇帝は心底驚いたように振り返り私の顔を見る。 無理もない、我が妻は元々兄の寵愛を受けた人で、兄からすれば体よく押し付けたという意識があったのだろうから。 その視線から逃れるように目を伏せると、私は更に続けた。「恐れながら、私があなたと血をわけた弟である以上、私が今までのように振る舞えば、私もこの子もいずれいわれなき罪を着せられて、抹殺されてしまうでしょう」 誰に、とはあえて口にはしなかったが